パリについての10の驚くべき物語
パリの街に関する驚き溢れる話、役には立たなくても面白くて、コーヒーを飲みながら話したくなるような逸話を読んでみてください。
パリはパリでしかないのですから:通りの方々に転がっている風変わりな話。
モンマルトル、パリのゲットーの跡地
いえいえ、モンマルトルは、昔から、鳩や小さなビストロ、自撮り棒や風刺画家が行き交うボヘミアン地区だったわけではありません。
オスマン男爵による大規模な工事の際、お金がないパリの人々は、パリ中心部から離れたこの高台の地区に住むようになりました。モンマルトルの雑木林と呼ばれた数々の木造小屋は、コーランクール通り、ジラルドン通り、ルピック通りの間に建てられ、雑多な村となりました。
オペラ座の怪人の伝説はどこから始まったのでしょうか?
オペラの怪人の伝説は1873年まで遡ります:ル ペルティエ通りにある芸術学校で起きた大火事で、若いピアニストは、顔の一部と、芸術学校のバレリーナだった婚約者を失いました。悲嘆に暮れ、見苦しい姿になった彼は、完成する2年前の建設中のオペラ座ガルニエ宮の地下室に避げました。それ以来、彼がオペラ座の地下湖に住みつき、従業員から食べ物をもらっているという噂が広まりました。
現在も、彼の5番のボックス席は空いています…
警察官を「若鶏」と呼ぶのは、パリから始まりました!
1871年、パリ・コミューンの暴動の末、首都の多くの建物が焼けました。パリの警視庁本部も、その1つです。そのため、警察官たちは、シテ島にあるパリの家禽市場の跡地に建てられた兵舎に住むことになりました。
警察官が、その場所にあったかつての市場の名前を引き継いだだけの話なんです !
パリが時間をお知らせします
コンコルド広場の石畳に、大きなローマ数字が書かれているのに気づきましたか?これは、世界最大の日時計の1つなんです。高さ23メートルのオベリスクの影が、時間を示しています。
ポン・ヌフ(新しい橋)は、それほど新しいものではありません
パリで最も古い橋の上を歩いていると知らずに、ポン・ヌフを渡ったのではありませんか。16世紀の終わりに両岸を結ぶ目的で建てられたポンヌフは、その名前とは全く異なり、新しくありません。
コロネル・ファビアン広場:動物用の古代闘技場
サン・マルタン運河とビュート・ショーモンの間には、現在、コロネル・ファビアン広場があります。ここは、1781年から1833年まで、動物用の闘技場でした。
この大規模な闘技場では、犬が雄牛、豚、クマまたはイノシシと闘う競技が開かれていました。
1883年の法令より、この劣悪な闘技は終了しました。
パレ・ロワイヤル、かつての歓楽街
現在、この庭園は静かで手入れされてるので、何世紀も続いた当時の喧騒を想像するのは難しいでしょう。
革命の時、回廊は様々なジャンルの人で賑わっていました。
高度な議論の場であり、売春婦で溢れる歓楽街でもあったこの庭園には、ディドロや、フランス革命にで活躍したダントンやロベスピエールといった思想家が行き来していました。
パリの地下には、14の地下鉄の廃駅が隠されています
パリの地下に、14の地下鉄の廃駅があることをご存知でしたか?多くの人々が戦争に動員されたため、第二次世界大戦の初めに大部分が閉鎖されました。パリの解放の際、あまり使われていなかった駅や 近隣の駅に近すぎる駅は再度使われませんでした。
例えば、サン・マルタン駅は、ストラスブール=サン=ドニ駅からわずか100mしか離れていません。
バスティーユ牢獄の石を使って作られたコンコルド橋
1772年、ルイ8世は、コンコルド広場からセーヌ川を渡る橋の建設を承認しました。資金不足を理由に、建設は中止されました。
遂に完成したのはフランス革命の時でした。バスティーユ牢獄の解体でできた石が、橋を完成させるために使用されました。
東駅に残る掩体壕(えんたいごう)
東駅の掩体壕(えんたいごう)は、手つかずのまま、まさに3番ホームと4番ホームの下に残っています。
1939年に整備されたこの避難所は、空襲時の隠れ場所でした。列車を運行し続けるのに必要な人員を避難させることを目的とした掩体壕(えんたいごう)でした。
フランス当局によって建てられ、1940年の敗北後はドイツ人に占領されました。彼らが使用したことを証明する文字が、今日も壁に残されています。
特別な時に、この掩体壕(えんたいごう)は一般公開され、見学することができます。